“デスマッチのカリスマ”葛西純が激白「若いやつに座を譲るとかバカか!嫌なジジイになってとことん生きろ!」
◾️デスマッチがやりたい思いで安定した生活を捨てる
大日本プロレスでデビューした後、葛西は危険な凶器攻撃を真っ向から受け止める果敢なファイトスタイルが人気を呼んでいた。そんな彼に転機が訪れる。故・橋本真也が立ち上げた団体「ZERO-ONE」への移籍だ。当時「準メジャー」と呼ばれ、新日本プロレスや全日本プロレスに並ぶ勢いのある団体へ行くことはファンから見れば出世である。しかし葛西は所属当時ストレスを抱えていたという。
「ZERO-ONEに行く前、膝の靭帯を切る怪我をしていたんです。同じ頃会社(大日本プロレス)もヤバい状態で給料が貰えなかった。生活していくのにも苦労していたんですよ。なんか自暴自棄になっていて、好きなことやっててもお金もらえないんじゃしょうがねえなって感じでしたね」
そんな時にZERO-ONEから「復帰したら是非うちのリングでやってみないか」と声をかけられたという。
「もう給料もらえるならどこでもみたいな感じだったし、デスマッチがやりたいとか、そういう気持ちがもう薄れかけていたんで行くことにしました」
当時のZERO-ONEは、橋本真也のネームバリューもあって上昇気流に乗っていた。橋本のライバルだった小川直也や、全日本プロレスを離脱してNOAHを旗揚げした三沢光晴、新日本プロレスから全日本プロレスへ移籍した武藤敬司などそうそうたるメンバーがリングに上っていた。その時葛西に与えられた場は前座であった。移籍当時の思いをこう振り返る。
「最初の頃は試合数も多いし、ギャラもきちんと出る。大きな声では言えませんけど、デスマッチと比べたら身体の負担は少ない。こんないいことはないなんて思いながらやってたんです。でも、次第にやっぱり物足りなさを感じてきたんですよ」
大日本プロレス時代は、デスマッチでメインベント張って歓声を浴びながら試合をしていた。しかしZERO-ONEのリングでは、猿のキャラに扮して試合をさせられた。バナナをプレゼントされ過ぎてバナナ恐怖症になったり、バナナをくわえたまま先輩レスラーに首輪で繋がれて入場したりするなど不本意な扱いを受ける日々。しかし大日本プロレス時代と違って、給料は出るからプロレスラーとして生活してく上での苦労はない。だが、葛西は物足りなさを感じていたという。
「デスマッチに対する恋しさというか、自分が本当にやりたいプロレスはバナナの皮で滑って転んでお客さんが笑うような試合じゃない。もっとドロドロしたものだし、痛みが伝わる試合だった。そんなデスマッチがやりたかった。その思いが強くなってきてストレスになったんです」
葛西はZERO-ONEを退団し、デスマッチへと帰っていった。この時の決意が葛西を「カリスマ」へと押し上げていく。